2020/1/25(土)第1回城跡巡り 勝賀城他

今年から讃岐の城跡巡りを軽ハイキングの一環としてはじめました。 記念すべき一つ目は、香西氏に関連する城跡等をめぐりました。 最初は居城「藤尾城」を目指しました。 今後もたくさんある城跡を巡る軽ハイキングを実施ますので、興味のある方はご参加下さい。

リーダー:T下  参加者:S上ハ、M高、Aヨ、Y関 計5人

9:40集合・髙松イオン9:50出発→藤尾城跡・作山城跡10:05/10:40→ 薪焼きパン小麦堂10:55/11:15→11:20登山開始・勝賀城跡12:20~ 13:40・14:20下山→筑城城14:45/15:05→佐料城15:15/15:30→ 反省会15:45/16:10→髙松イオン16:20解散

参加人数が5人だったのでY関さんの車1台で移動することとしました。天気は上々。記念すべき 一つ目は 、香西氏の居城「藤尾城」を目指しました。 宇佐八幡宮前の藤尾城案内板前 香西の地名は、歴史的呼称では「カサイ」とも読みます。笠居(カサイ)郷が香西(カサイ)郷と 記されるようになったのは、香川郡の西に位置したことによるとも香東川の西に位置するためとも 云われています。 香西氏は、承久の乱(1221年)に鎌倉幕府方に加わって戦功をあげた新居資村(にいすけむら) が新たに領地を得た笠居郷に入り、嘉禄元年(1225年)に勝賀城・佐料城を築城して香西資村 を名乗り香西氏を立てたのが始まりと云われています。

 

① 藤尾城(ふじおじょう)

◆史跡指定:髙松市指定史跡

◆遺  構:郭 香西小学校のすぐ北に隣接する標高20mの磯崎山(藤尾山)にある「宇佐八幡宮」「香西神社」 の境内が藤尾城の跡です。山頂部と西に大きな平段地があり東や南は急峻となっています。周囲を 走る五角形の道路が概ね城域と思われます。藤尾城は天正3年(1575年)香西伊賀守佳清 (こざいいがのかみよしきよ)によって築かれた居城です。 天正10年(1582年)長宗我部軍と藤尾城で最後の戦となりました。降伏して長宗我部の軍門に 降った後、天正13年(1585年)秀吉の四国征伐で圧倒的な軍勢に攻められ、長宗我部は土佐に 退散となり、香西伊賀守佳清は、野に下り365年(18代)の歴史を閉じることになりました。

 

②作山城(つくりやまじょう)

◆遺  構:なし 藤尾城から300mほど南に城の名前が書いている木柱が立っているだけで城跡を思わせるものは 何もない作山城に到着した。 作山城跡をしめす木柱 標高16mの小丘は航空写真で見ても範囲のイメージがつけづらく全 て住宅と道路になっています。元は、海側の異変を佐料城に告げる烽火場(狼煙場)であったが 藤尾城築城の時、藤尾城の副城として補強し香西備前守の居城としました。藤尾城を築城するとき 西側以外は三方湿地帯でした。

【番外】小麦堂  11時前に薪焼きパンの店「小麦堂」に行くも開店前に早くも駐車場は一杯でした。店の外で 順番待ちをしてから入ると5人で中は一杯です。基本は、お客さんがパンを詰めて自分で精算する 全自動(全部自分でする)の店です。近頃では珍しい薪焼きのパンは独特の味わいです。ここで 本日の目的を達したかもしれません。

 

③勝賀城(かつがじょう)・香西氏の「詰の城(戦のための城)」

◆史跡指定:髙松市指定史跡

◆遺  構:石垣,土塁,郭,堀 11:20佐料側の標高75mの道路脇に車をおいて、勝賀城登城に出発。勝賀山は標高 364.1m。山名は、古くは笠居山といわれ和名抄には加佐乎利とあることから「カサオリ山 (笠形に登る山=笠折・笠居)であったが、後に笠居山と呼ばれ、さらに勝賀山と変わっていっ た。 勝賀の名前は香西氏が武士好みに変えたとも云われています。 ミカン畑の道を登っていくと猪の柵がある登山口手前の標高180m辺りに軽トラが4台止まって いた。空いてればここまでは車で入れそうです。 12:20勝賀城跡到着。地元の園児がたくさん来ていて賑やかでした。私の知り合いの 「勝賀城跡保存会の北原さん」が案内で来ていた。 勝賀城跡は、県内屈指の縄張りを持ち遺構も非常に良好だと言われています。今も発掘調査が続け られており新たな発見が続いています。 中央には、江戸時代以降に使われたであろう雨乞いのリュウゴンさんがありました。 昼食の後、北原さんの案内で新たに発見した土塁の話しなどを聞きながら東側のビューポイントに 行く。 港に出入りする船が丸わかりで奥に小豆島がハッキリ見え軍事的にも重要なポイントである ことが分かります。時間がいつのまにやら経ってしまい北原さんと山頂で別れ下山となりました。

 

④筑城城(つづきじょう)

別名:築城城,下飯田城 本村集会所のとなりの城王神社(じょうおじんじゃ)前にある築城城の案内板を確認してから、 小川沿いを筑城城を想像しながら散策しました。平成9年に弦打公民館改築に伴い文化財発掘調査 が行われ井戸1基のほか多数発見されておりますが、全容はよくわかっていません。城は弦打 小学校の北、本村集会所付近にあったといわれ、北門がJA香川弦打付近、南門が弦打小学校の北 付近にあったと云われています。 弦打公民館前。発見された井戸と説明看板が背面にある。 築城年代は定かではありませんが築城氏によって築かれたと云われてい ます。築城氏は代々勝賀城主香西氏に属し、香西氏滅亡後は、生駒氏に二百石で召し抱えられたと 云われています。

 

⑤佐料城(さりょうじょう)

◆史跡指定:なし

◆遺  構:堀 本日最後の佐料城です。公民館に車を止め城域と思われる範囲をぐるっと巡り唯一残っている堀を 確認しました。 唯一残る堀の遺構 承久年間(1219年~1222年)に香西資村(新居資村)によって築かれた平城です。 背後の勝賀城が詰の城であるのに対して平時の居館として同時期に築かれました。佐料城は、 奥津神社の北東側の一辺65m四方程の規模で、その外側に水堀が巡っています。現在確認できる 遺構は南西隅の水堀で幅約4m程度でL字になっているところだけです。 案内板は、奥津神社参道入口付近にあり、水堀は住宅地の間にあるので、東側へ回り込まないと 見学することができません。現在城内には民家がたくさんあります。 城跡巡り終了のあとは、和菓子屋の奥を借りて反省会をしました。                                      【記録:T下】